サントリー美術館「高野山開創1200年記念 高野山の名宝」展

 八大童子・・・。あぁ、何度も何度も、写真で、見てましたよ。

 本物を見たことあると、ずっと思い込んでました。しかし、対面してみたら、思っていたより小さいと感じました。もしかしたら初対面だったのかなぁ。

 肌の質感と、重量感は、自分の想像していた通り。こんなに衣の模様がきれいなんだぁ、みとれます。

 ところで、あれ、きれいな截金もみたのだけれど、なんという像だったかなぁ・・・。復習を後でしなければ。

 快慶の執金剛神像も、孔雀さんもばっちり。うん、きれい。やっぱり重量感がないのが…

 さーっとみたあと、講義を受けます。

 今日の講義は、1.高野山と仏像、2.運慶と快慶、3.八大童子像と運慶、4.四天王像・快慶という流れでした。

1.高野山と仏像.

 「空海」という人は、”高野山”(816)と”東寺”(823)に賜っています。二つのお寺の密教的意味を確認。

2.運慶と快慶

■運慶(1150頃?~1223):
 ”東寺”の修復をしたということもある。
 ”高野山”が平安後期に持っていた密教的造形に影響を受けているのではないか?
 ”高野山”は、古代・中国・密教という造形要素を持っていた。
 ex. 高野山金剛心院、康助作 大日如来像(平安後期)のもつ足のあたりの衣文が、
   運慶作の3点(円城寺・足利・真如苑)の大日如来像の足の衣文に似ている。

 金剛峯寺、八大童子像(1197)。

■快慶(?~1221以降1227以前)
 金剛峯寺、執金剛神像(1197)。
 金剛峯寺、孔雀明王像(1200)。
 
3.八大童子像と運慶

 さて、なぜ八大童子像は運慶が作ったといえるのかというところに迫ります。

 当時書かれたと思われる資料には、運慶とは書かれていない。
 延応元(1239)太政官牒と、帝王編年記には、行勝(1130-1217)という真言宗と、頼朝という言葉は確からしい。 
 Note:江戸時代に書かれた「高野春秋編年輯(しゅう)録」と、「紀伊続風土記」には、運慶作とでてくる。

 八大童子像のX線調査で像内の月輪形木札発見!という根拠が一番大きなもののようです。

 ちなみに2体は、消失し、あとから追補されたもの。南北朝とも室町時代ともいわれるが、ほとんど研究されていないんですって~

 それから、真ん中の不動明王は、行勝上人の自刻とか聞き取ったのですが聞き間違いでしょうか?とにかく、運慶が、この不動明王の彫眼と、八大童子の玉眼をうまくバランスとったのだと・・・。高野山でももう一度拝見してみたい。

 そして、延応元(1239)太政官牒と、帝王編年記からも、頼朝、行勝、運慶が線でつながる。

4..四天王像・快慶

 金剛峰寺、四天王と、東大寺大仏殿の四天王像の関係を探る・・・

 『明月記』(1196)は、 東大寺大仏殿の四天王像の1/10の本様があると。金剛峯寺のサイズは一致する。ここは何度か聞いたような気がしたけど・・・ここから先とまとめまでがうまくまとめられません。

 そして、重源と快慶の結びつきがうまくいかない。 うーん、何か聞き逃したかな。


 頼朝-運慶、そして、重源-快慶とつながったことと、東大寺の鎌倉再興へ、と講義は閉じられるんですけどね。


おまけ:

丁度、高野山霊宝館のホームページを見ていましたら
http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/myo/hachi.html

講義でも、絵をもとに、彫刻が作られたとおっしゃっていましたが~。
何度みても、絵より美しい彫刻でございますぅ。

スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

M

  • Author:M
  • Yogi目指して、ほへ~っと。
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索
RSSフィード
リンク