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初高知&松山 4日目 - まじめな歩き遍路

3,4日目の夜は、ふなやさんで過ごしました。

高知から高速バスの旅は意外と長いものでした。3時間。そのあと、伊予鉄松山市駅でおります。JR松山駅と違うということに気が付いたのはバスの中。スマフォがなかったらうっかりJR松山駅まで行ってしまったかもしれません。そして、伊予鉄といっても、路面電車に乗りこみます。20分程度で道後温泉駅へ。おりたったとたんに感じる、こじんまりした温泉街の雰囲気に、すぐにのんびりした気分になります。はぁ~。

ふなやさんは路面電車の駅から徒歩2分程度です。ふるきよき旅館のサービスで、なんだか懐かしく、心地よく感じました。ふとんのあげさげ、そのタイミングからなにから絶妙です。

 はじめての 鮒屋泊まりを しぐれけり 漱石

宿で夕食が取れればよかったのですが、何時着か決められなかったため、宿での夕食の予約はしていません。すぐに外に出て、道後温泉周辺の飲み屋さんへ。鯛しゃぶいただきま~す。まぁ、普通においしいんですが、高知のときの感動はなかったです。ガイドブックじゃダメですね。やっぱり、口コミが一番と学びました。今度はおいしいお店を聞いて出かけます・・・。三津浜とかそのあたりまでいってみるとかすればよかったのでしょうか。

そして、4日目はお遍路。

本当は、46番からのつもりだったのですが、相方が疲れていそうだったので、49番札所からに変更します。

49番は、西林山 三蔵院 浄土寺。路面電車で松山市駅にでたあと、電車で久米駅へ。210円の切符♪の検札がなつかしい。

空也上人像を本堂の厨子に安置する浄土寺は、縁起によると天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、恵明上人により行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創された。法相宗の寺院だったという。弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興し、真言宗に改宗した。空也上人が四国を巡歴し、浄土寺に滞留したのは平安時代中期のようです。
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うーん、一体、空海はどれだけの寺を・・・。あの時代に?


ここで、相方が、48番近いんだね、なんていうものですから、往復5kmをプラスアルファで歩くことにします。くもりで歩きやすかったけれど、片側一車線なのに意外と車がよく通っている道です。お遍路の気分が若干そがれるかも。
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48番札所 清滝山 安養院 西林寺へ。ここは、ちょっと不思議なお寺で、階段を上がらないで、下がって入るんです。ほかにもあるのでしょうか。

聖武天皇(在位724〜49)の天平13年、行基菩薩が勅願により伊予に入り、国司、越智玉純公とともに一宮別当寺として堂宇を建立。その地は現在の松山市小野播磨塚あたりの「徳威の里」とされ、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置したそうです。大同2年(807)弘法大師が四国の霊跡を巡礼した際この寺に逗留。ここで大師は国司の越智実勝公と協議、寺をいまの地に移して四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とされたとあります。

「このころ村は大旱魃で苦しんでおり、弘法大師は村人を救うために錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。寺の西南300mにある「杖の淵」はその遺跡とされ、水は涸れたことがなく土地を潤し、昭和60年の「全国の名水百選」にも選ばれている。」・・・という風にかいたサイトがありましたが、どこかで聞いたような(笑)。たくさんまわっていると、どこがどうだかわからなくなりそうです。

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さて、同じ道を往復して、さらに浄土寺を通り過ぎ、50番 東山 瑠璃光院 繁多寺へ。ちょっと山を登っていく感じが、お遍路気分を出してくれました。

天平勝宝年間に孝謙天皇(在位749〜58)の勅願により、行基菩薩がおよそ90cmの薬師如来像を彫造して安置し、建立したと伝えられ、「光明寺」と号されました。弘仁年間(810〜24)、弘法大師がこの地を巡錫し、寺に逗留された際に「東山 繁多寺」と改め、霊場とされたそうです。

ちなみに、ハンタジというのを、ずっとシゲタデラと思い込んでいました。標識にローマ字があって初めて学びました。なんとなく孝謙天皇の時代という感じで、浄土寺と構造が似ていますね。でも、山門からの感じは大分違います。

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境内でちょっぴりおやつのようなお昼のようなものを食べて、歩き始めます。上る方向ですね。亀がたくさんいました。鯉のようなものも泳いでいるようでした。
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道後に戻ってまいりました。熊野山 虚空蔵院 石手寺です。

参道が回廊形式となり仲見世のみやげ店が並びます。境内は、巡礼者よりも地元のお大師さん信者や観光客が多い霊場だそうです。
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境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されている壮観さで、それに寺宝を常時展示している宝物館を備えており、四国霊場では随一ともいえる文化財の寺院であると、書かれています。しかし、なんだか、そんな様相ではないところが不思議。なんていうか、笑ってしまう、庶民的な雰囲気のお寺です。たとえば、本尊の前にある五鈷杵のモニュメントとか、何かこう・・・、荘厳さを欠くセンスのです。
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ブラタモリでも放映されていた内容によると、江戸時代は温泉の宿泊所のようなものもお寺の敷地内にあったということで、そういったアミューズメント的な要素が残っているんでしょうか。

鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹である。境内から出土された瓦により、石手寺の前身は680年(白鳳時代)ごろ奈良・法隆寺系列の荘園を基盤として建てられた考証もある、といわれても・・・・。

神亀5年(728)に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に二十五菩薩の降臨を見て、この地が霊地であると感得、熊野12社権現を祀ったのを機に鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇(在位724〜49)の勅願所となりました。翌年の天平元年に行基菩薩が薬師如来像を彫造して本尊に祀って開基し、法相宗の「安養寺」と称しました。 「石手寺」と改称したのは、寛平四年(892)の右衛門三郎再来の説話によるとされます。

寺は衰微するが伊予の国司・源頼義や僧・堯蓮らの援助で再興、弘安2年(1279)には後宇多天皇(在位1274〜87)の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷しているそうです。時宗の開祖 一遍上人(1239〜89)が青年期に、太宰府から伊予に帰郷した際、有縁の寺に参籠して修行した場所とも言われます。上人は晩年の正応元年(1288)、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』をこの寺に奉納されています。と、お寺解説にかかれていました。

それにしても、本尊、大師堂と2回ずつフルセットでお経を唱えているのに、ちっともうまくならないんですよ。不思議ですね。紙にかじりついて、カミカミになりながら唱えています。

1 霊山寺→2 極楽寺→38 金剛福寺→39 延光寺→37 岩本寺→31 竹林寺→49 浄土寺→48 西林寺→50 繁多寺→51 石手寺 ようやく10件まわりました。
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